花を想う空の間で
2018年10月7日日曜日
小休止
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2018年夏は北イタリアをドライブし、アクイレイアの教会の床、ラベンナのガッラ·プラチディア霊廟を見てきました。ローマ時代末期の素晴らしいモザイクに感動しました。
2017年7月20日木曜日
水月湖のほとりで
「八ヶ岳jomon楽会の若狭と近江を巡る旅」に参加した。目的地は若狭三方縄文博物館。ここには鳥浜貝塚の考古遺物が展示されている。鳥浜貝塚といえば、縄文通なら誰でも知っている“縄文のタイムカプセル”と呼ばれる遺跡だ。1962年、河川敷の改修工事で見つかった遺跡なので、保存状態が極めて良く、大型の丸木舟、縄や編み物の断片、赤い漆塗りの櫛などの漆製品、エゴマ、ひょうたん、シカ、フナなどの動植物遺体と糞石などの発見があった。「縄文時代は石器時代」というそれまでの観念は、この遺跡で覆された。木を巧い、漆使い、植物管理をしていた縄文時代という、新しい縄文文化解明の先駆けとなった遺跡である。三内丸山遺跡などの大型縄文遺跡発見は、鳥浜貝塚より後のことになる。
八ヶ岳山麓富士見町に引っ越してきた考古学好きの私は、縄文時代の遺跡密集地域のど真ん中に住んでいることにふと気づき、縄文時代の勉強を始めた。そして富士見町図書館で最初に手に取った縄文文化に関する本が、哲学者梅原猛編の『縄文人の世界観』だった。その本で環境考古学者安田喜憲を知り、鳥浜貝塚を知った。そして当時、梅原猛が館長をしていた三方町縄文博物館へ出かけたので、今回の鳥浜貝塚行きは2度目となる。今では、「若狭三方縄文博物館」と名前が変わり、展示方法も一段と進化していた。
2度目の鳥浜貝塚はさておき、今回、私の最大の目的は水月湖畔の宿に泊まることだった。湖畔の宿に憧れた訳ではない。水月湖という湖に憧れていた。
水月湖は福井県若狭地方にある三方五湖(三方湖、水月湖、菅湖、久々子湖、日向湖)の一つで、五湖のうち最大面積の湖である。五湖はそれぞれ淡水、汽水、海水と水質(塩分濃度)が違うのと水深の違いから、五色の湖と言われている。
素晴らしい天気に恵まれたその日、梅丈岳の頂上庭園展望台からは三方五湖が見渡され、日本海も光っていた。西の展望台の足下には水月湖が広がり、その日の宿、「水月花」が見えた。宿へは樹林の上を投げたカワラケのように、駆け下りて行けば直ぐ着くような気がする近さだった。水月湖を眺めながらも、湖のそばに早く行きたいと焦った。
水月湖はどうして私を捉えて離さないのか。それは、環境考古学者安田喜憲の研究から始まる。安田喜憲は、発見されたばかりの鳥浜貝塚を環境考古学的アプローチで研究しようと三方湖底をボーリング掘削し、堆積物に含まれる植物の化石や花粉を調べることで、縄文時代の気候変動を復元した。
安田喜憲の研究は、鳥浜貝塚から始まり、日本海側の環境復元のスタンダードを確率したが、さらに精度の高い堆積物資料を得るために水月湖に着目した。三方湖底のボーリングコア(円柱状の資料)には河川流入の影響があったが、水月湖には河川の流入がなく、水深も30mと深いのでボーリング調査をしたところ、細かい縞模様がボーリングコアの全体に見ることができた。水月湖は周囲をほどほどの高さの山に囲まれ、風が吹き荒れることはないので波は立たない。流入する河川もないし、すり鉢状で水深は深く、湖底は汽水で重く、湖面上層部は淡水と分かれている。そのため、湖底は無酸素状態なのでミミズやゴカイなどにかき乱されることはない。しかも三方断層のおかげで湖は少しずつ沈み、埋まらない湖なのだ。そのような好条件のため、地層の縞はくっきりと見え、微細な堆積物の分析ができた。
英語ではこの縞を「varve」と言い、氷河地帯など高緯度地帯では知られていたが、温暖な地帯では研究はされていなかった。日本語にないvarveはスエーデン語の「繰り返し、輪廻」を意味するvarvからきている。varveを日本語で「年縞」と名付けた人は、水月湖の基盤まで掘削する決断した安田喜憲であり、私の尊敬する環境考古学者、その人である。安田喜憲はいう。「この美しい縞模様は、美しい日本の四季が生み出したものだ」と。美しい縞模様を作った日本の風土、日本を誇らしく思わなくてはならない。
年縞堆積物は、過去の環境変化を詳細に復元する目的で使われるものだった。しかし、安田喜憲の助手だった北川浩之はそれだけには終わらせず、地質学的な時間を測る「ものさし」を水月湖の年縞で作ろうと分析を始めた。1枚が1mmもないほどの薄い年縞には、1年分の膨大な情報が詰まっていた。その中の樹木の葉の化石のC14年代を測定すれば、年縞との組み合わせで正確なキャリブレーション(換算法)データが得られる。紆余曲折20年余という時間と、日欧の強い国際協力のもと、水月湖は2013年9月に考古学や地質学での年代測定の世界標準となった。この「世界のものさし」水月湖の年縞は、現在の世界標準時計グリニッジ天文台に対して、過去の世界標準時計と言うことができる。
水月湖のボーリング調査を決断した環境考古学者、7万年分の年毎の縞を数え、分析した学者たちの努力を、この湖は黙って見ていただけだし、今だって静かに沈黙しているだけだ。安田憲喜と中川毅、北川浩之の師弟による研究と欧州の研究機関との連携プレーで、水月湖の年縞が世界一精密な年代目盛り、世界標準となった。その経緯を、本を読んで追っていた私のワクワクを、同行の仲間の誰も知らない。部屋から、大浴場から、レストランから湖面を眺めていた私のことを、私のセンチメンタルな想いを無視するかのように、湖はさざ波も立てず、静かに湖面を輝かせていた。なにせ7万年のひとときのことなのだから。
参考文献:安田喜憲「一万年前」(イースト・プレス)、中川毅「時を刻む湖」(岩波科学ライブラリー)、森川昌和「鳥浜貝塚」 (未來社)
2018年には若狭三方縄文博物館の隣りに水月湖の展示施設が開館する予定。現在は福井県里山里海湖研究所にて年縞を展示し、解説している。
2017年5月15日月曜日
弥生人の粋なはからい
2017年正月特別番組NHKBSプレミアム「英雄たちの選択」でもう一つの邪馬台国として吉備王国の古墳が紹介されていた。「そうか、吉備にねー、邪馬台国、ありえる」と妙に納得した私は、古墳の前の形態である弥生墳丘墓をどうしても見たくなった。
楯築遺跡のある倉敷市へ行くチャンスはある。玉野市に住む弟たち訪問の帰途に寄ればよいのだ。岡山県玉野市は倉敷市の隣だから近い。「楯築遺跡、楯築弥生墳丘墓」としっかり名前を覚え、車のナビにも地点を入れ、2017年3月19日、玉野市からの帰途に実行した。
瀬戸中央自動車道水島インターで下り、開けた畑と市街地が混在する平地を進み、山陽新幹線が横切っているとところで犬養木堂記念館の看板を認めた。そうだ備前は彼の故郷だったと思い出した。犬養木堂は富士見高原を好み、政界を引退して住む場所と決めていた。その木堂の別荘「白林荘」は富士見町、家の隣にある。楯築とはご縁が重なると、関係ないけれど感じ入った。
小高い丘にさしかかり、坂を上って行くと住宅地に入った。こんな住宅地のところではないと思いながら、右手の鬱蒼とした林を見ると、そこには「王墓の丘史跡公園」と立て札がある。ちょっと意外な感じだったけれど、ちゃんと狭い駐車場もあるので、そこに車を停めた。いつもながら夫は車で座っていると言うので、独りで歩くことにした。いつもこうなのだ。上杉謙信の春日山城に行った時も、独りで城址の頂上まで登った。 シャガの花が咲き乱れていたっけ。
朝未だきとは言えない9時前だったけれど、日曜日らしく住宅地はひっそりしている。「王墓の丘」には王墓山古墳、日畑赤井堂(法田山古墳)、楯築弥生墳丘墓が並んでいるらしい。楯築弥生墳丘墓へは、駐車場からすぐのところに入り口があった。数日前の寒さとは打って変わった暖かい朝の空気を楽しみながら、ゆっくり林の丘を登っていった。遺跡の案内板のある所で鋭角に道は折れ、さらに登っていくと、変なものが見えてきた。天を突くような白い大きなタンクだ。後で分かったことだが、これは「庄パークヒルズ」の大規模造成工事で作られた給水塔とのこと。古代への憧れがぶち壊され、ムッとしたので、林の散策路へは入らずに給水塔の横を歩いて頂上を目指した。
小さな丘(円丘部)の頂上には、背丈より高い石が5つ、円を作って立っていた。弥生時代になると縄文の木柱列ではなく石(列石)になるのだと思いながら、2、3周歩いた。下を見渡せる端に立つと、住宅がすぐ足の下まで迫っていた。もう一回石の周りを歩いた。
丘の側には無粋な倉庫のようなものが建っていたが、そこを通り過ぎて坂を下って行った。鋭角に曲がる場所まで来ると、坂を上がってくる人たちと出会った。何か研究者たちのような感じがする人たちだなと、挨拶をしてすれ違った。すると案内板でそのうちの一人が説明を始めた。思わず「専門家でいらっしゃいますか?説明を後ろでお聞きしてもよろしいでしょうか?」と厚かましく言葉をかけると、その人は「専門家ではないけれど…。今日は二人を案内しながら…」ということ。後ろから静かについて行こうと思ったが、そうはいかなかった。乗り出してなんやかんや質問をして、先頭切って歩いたりしてしまった。
先ほどの丘は墳墓の頂上で、列石は下半分以上地下に埋もれて建っているとのこと、クレーンもない時代によく建てたものだ。さらに無粋な倉庫は収蔵庫で、楯築神社のご神体として伝わっている亀石が納められているそうだ。そして、ここではこのご神体より一回り小さな亀石(弧体文石)が出土し、それは東京国立博物館にあるとのこと。すごい石なのだ!収蔵庫(兼神社)には金網の張られた窓が四方にあり、中を覗くことができた。九州の亀石は聞いたことあるが、実物を見たのは初めてだ。なるほど不思議な石だ。人の顔にも見える。先ほどはスタスタ歩いただけの墳丘墓が、こんなにすごいものとは知らなかった。偶然出会った方々に深い感謝の念を覚えた。
三人の方々は、これから一日中古墳めぐりをなさるとか、ついていきたい気持ち山々なれど、帰らねばならない。その前にもう一ヶ所、すぐ近くにある造山古墳を見ようと軽く考えた。車に乗って広い道に出ると、なんと渋滞していた。途中で横道から割り込んで来た車がある。夫に言わせれば譲って上げたとのこと「さっきの人たちだよ」「エー、後をついていって、ついて…!」と、10分も走らないうちに造山古墳に着いた。また挨拶して、今度も一緒にということになった。
造山古墳(つくりやま古墳)は、全国第4位の大きさである。しかも、自由に登ったり下りたりできる古墳としては最大だということ。古墳は大体が御陵だから、勝手に入れないのだ。冬の間、私は歩いてないからと、ヨロヨロするのを抑えながら若い人たちについて登った。ここは丘ではなく小山だ。頂上からの見晴らしは素晴らしかった。「あの辺りが高松城」秀吉が水攻めして、大返ししたところだ。「ここに毛利が陣を張った。あそこの崖のようになった場所は毛利勢が切り崩した」との説明。この山が古墳だとは、当時の武士たちは知らねーだろう。古墳から戦国時代まで歴史は空を飛んだ。
別れ際に麓の駐車場で記念撮影をした。「写真を送りたいのですが、メールアドレスは?」「Facebookは?」「してます、してます」バアさんもFacebookしていてよかった。その場で、すぐFacebookでつながった。帰宅後、玉野つながりとか、岡山理科大学つながりも判明したのでさらに楽しくなってきている。
「弥生人の粋なはからいに感謝してます」と、メッセージが届いた。本当に粋な人だな、楯築墳丘墓に眠る弥生人は。
2017年3月8日水曜日
八ヶ岳縄文ワールド (その3)
井戸尻考古館からの眺め |
諏訪清陵高等学校の講演会で三上徹也と歓談する武藤雄六 |
八ヶ岳縄文ワールド (その2)
富士見からの八ヶ岳 |
武藤雄六は、昭和5年に長野県諏訪郡富士見町境池袋で生まれ、現在も住んでいる。幼い頃はいじめられっ子だったので、登下校時はいじめっ子たちから逃れるため、ひとりで沢の底をのぞき込んだりしていた。沢底の石を見ているうちに、赤い石に魅せられ、それを拾い続けた。赤い石は六角石(角閃石)という珍しい石であったので、噂を聞きつけた業者が買い付けに来たりした。石の勉強をするため本を買いに諏訪の博信堂へ行き、そこで店主の藤森栄一と知り合った。そのうちに藤森の家に招き入れられ、石器や土器を見せてもらったりしたが、藤森としては「無口な変な小僧」という印象だったらしい。
六角石 |
昭和29年、武藤はJR中央本線信濃境駅前の農協に勤め始める。その頃、藤森栄一が富士見町新道で住居址を一軒掘り、その住居で使われていた土器一式を発掘した。それ以来、藤森栄一は富士見町高森の人々と懇意になり、境史学会(旧諏訪郡境村の史学会)を作った。境史学会には武藤の小学校の担任の先生もいたし、藤森栄一とは石つながりの顔見知りでもあったので、武藤もそこに入れてもらった。昭和31年に藤森はこの境史学会で講演をしたが、その時に「信濃境界隈にはすごい縄文の遺跡があるはずだから、ぜひ発掘しろ」と、武藤をはじめ、地元の人々をさかんにあおった。
八ヶ岳縄文ワールド (その1)
国宝 縄文のビーナス |
国宝 仮面の女神 |
諏訪湖からの八ヶ岳 |